桑原武夫の『文学入門』には、文学は人間の人生に必要なものである、というかなり強い主張がある。
今回は本書全体を論じたいわけではない。とくに気になったのは、文学が人間に何を与えるのか、そして文学作品は翻訳されてもどこまでその価値を保ちうるのか、という部分である。
桑原の考えには、かなり共感するところもある。
それでも考えていくうちに、どうしても一つの疑問が残った。
「それは、本当に『文学』でなければならないのだろうか。」
文学で他人の人生を経験する。それは分かる
桑原は、優れた文学を読むことによって、私たちは自分では経験できない人生を経験できると考える。
自分とは違う人間の立場に入り、その人物の欲望や葛藤を一時的に共有する。
現実なら簡単に非難してしまう人物でも、小説の中でその人物と一緒に生きているうちに、単純に善悪だけでは切れなくなることがある。
そうした経験を重ねることが人間を見る目を複雑にし、人生を豊かにする。
この考えそのものには、それほど反対しない。
実際、優れた作品に触れたあと、以前と同じようには世界を見られなくなることはあるだろう。
ただ、ここで最初の疑問が出てくる。
「それなら映画でもよいのではないか。」
『アンナ・カレーニナ』を小説で読まず、映画で見た人がいたとする。
最初はアンナを批判していた。
しかし物語が進むにつれて彼女の苦しみが分かってしまう。
人間というものを、以前ほど簡単には裁けなくなった。
それがその後の人生に影響を与えた。
十分にありうる話である。
映画でもいい。ドラマでもいい。舞台でもいい。落語でも、場合によっては音楽でもいい。
いまの私たちは、さまざまな媒体を通して、自分とは異なる人間の人生や思考に触れることができる。
実は桑原自身も、映画やラジオの登場によって小説が担っていた役割の一部が奪われ、散文芸術のあり方そのものが考え直されるようになったことを認めている。
ならば、もう一歩進めて聞いてみたくなる。
「映画でもできることを、なぜ小説でやる必要があるのだろう。」
もちろん逆も同じである。
小説にそのまま置き換えられる映画なら、なぜ映画でなければならないのか。
「何を語ったか」だけでは、作品にならない
ここから私の考えは、少し過激になる。
ある小説を読んだ人と、その映画版を見た人が話をして、
「要するにこういう作品ですよね」
と、ほとんど同じところに着地できたとする。
さらに別の人から、
「簡単に言えば、こういう話だよ」
とあらすじを説明されても、大切なものがほとんど失われない。
もし本当にそうなら、その作品はなぜ小説である必要があったのだろう。
私が作品に期待したいのは、むしろ逆である。
「要約した瞬間に、大切なものが大量にこぼれてしまう作品。」
映画にすれば別物になる。
口頭で説明しても届かない。
あらすじを聞いたところで、作品を経験したことにはまったくならない。
そういうものにこそ、その媒体を選んだ必然性があるのではないか。
だから私は、
「何を表現したのか」と同じくらい、「なぜこの方法でなければ表現できなかったのか」
を重く見たい。
桑原が語っているのは「文学」なのか
桑原は、文学によって人間について深い経験を得ることを重視する。
人物と人物との関係。
欲望。
葛藤。
社会と個人。
人生をどう生きるか。
そこに新しい発見があり、作品に触れた人間を変える。
それは重要だと思う。
ただ、それだけなら、少し「物語論」に近いのではないかとも感じる。
人間について深い何かを描くことなら、映画にも演劇にもできる。
桑原自身は、単なる事件中心の「物語」と近代小説を区別している。近代小説では、事件そのものより人物が中心になり、作者自身の個性による世界の発見が重要になる、と考えている。
それでも疑問は残る。
その世界の発見は、本当に言葉でなければ成立しなかったものなのか。
私は「文学」と呼ぶのであれば、そこに「言葉の芸術であること」を求めたい。
翻訳の話になると、違いがはっきりする
この違いが一番よく表れるのが、翻訳について考えたときだった。
桑原はかなり大胆である。
散文小説では、詩のような韻律そのものよりも、人間と人間、物と物との関係や、人間がものを考える作用が重要なので、優れた作品なら外国語に翻訳されてもかなりの部分を鑑賞できる、と考える。
世界的な名作だからこそ、翻訳でも十分に読める。
その考え方は分からなくもない。
実際、私たちは日本語に翻訳されたドストエフスキーやトルストイやカミュを読んで感動する。
翻訳作品が人の人生を変えることだってある。
それを偽物だとはまったく思わない。
ただ、私はそこで立ち止まりたくなる。
「言語とは、本当にそれほど透明な容器なのだろうか。」
言語は世界に名前を貼るだけではない
言語は一対一対応で翻訳できるものではない。
ある言語の単語Aと、別の言語の単語Bが完全に同じ領域を指しているとは限らない。
これは色を考えると分かりやすい。
現実の色は連続したスペクトルとして存在している。
最初から世界の側に「ここまでが赤」「ここからオレンジ」という線が引かれているわけではない。
そこに人間が線を引く。
そして、その線の位置は言語によって必ずしも同じではない。
私は言語というものを、それに近いものとして考えている。
世界にすでに完成した物や概念が並んでいて、言語がそれぞれに名前を貼っているのではない。
連続している現実に境界を引き、
「これは、あれではない」
と区別することによって、物事が認識できる形になっていく。
つまり言語は、世界を伝えるだけでなく、「世界をどのように切り分けて認識するか」ということにも深く関わっている。
だとすれば、翻訳とは単なる言葉の置き換えではない。
「ある言語によって切り分けられた世界を、別の切り分け方を持つ言語の中でもう一度成立させる作業になる。」
これは相当大きな断絶である。
『異邦人』の時制をどう訳すのか
たとえばカミュの『異邦人』をフランス語から日本語へ訳すとする。
フランス語には、日本語とは異なる時制の体系がある。
複合過去と単純過去の違いを、日本語の中で完全に再現することはできない。
意味を優先すれば、原文が持っていた時制の感触が落ちる。
その違いを無理に日本語へ持ち込もうとすれば、今度は日本語としてのリズムや自然さが損なわれるかもしれない。
どうしても何かがこぼれる。
問題は、そのこぼれたものを、
「細かなニュアンスが少し失われただけ」
と考えてよいのか、ということである。
その時制、その語順、その反復、その音、その曖昧さがあったからこそ、ムルソーという人物があの形で成立したのかもしれない。
まず「ムルソーという人物」が完全な形で存在して、そのあとカミュがそれをフランス語で説明したわけではない。
「フランス語で書くという行為そのものの中で、あのムルソーが生まれたのではないか。」
そうだとすれば、言語を交換したときに出来上がるものを、
「少し情報量が減った同じ作品」
とだけ考えることには無理がある。
100が70になったとして
桑原の翻訳観と私の考えの違いを、一つの比喩で整理してみたい。
原作品を100とする。
翻訳した結果、70が残ったとする。
桑原の考えに近いところから言えば、
「70も残っている。その70が国や言語を越えて多くの人間を動かす。それこそ文学の力ではないか」
となるだろう。
私は、この考えを否定したいわけではない。
70には、確かに大きな価値がある。
ただし私は、
「失われた30を、残った70から本当に切り離せるのだろうか」
と考える。
ここが最も重要である。
30だけに文学的価値がある、と言いたいのではない。
70が人間についての深い洞察で、30が言葉の装飾なのでもない。
「70と30が分離できない状態こそが、作品なのではないか。」
その30の言語的条件があったからこそ、70もその形で成立したのかもしれない。
そう考えると、
「細部は30ほど失われたが、本質的な70は残った」
という説明そのものが、最初から作品を「内容」と「形式」に切り分けすぎているように思える。
ここで桑原自身の創作論が面白くなる
興味深いことに、桑原自身、創作について論じるときには言語を透明な道具とは考えていない。
作家が何かを表現しようとするとき、言語は作者の思い通りには動かない。
言語そのものが作者に抵抗し、書いていく過程で、作者の最初の考えや関心まで変えていく。
この考えにはかなり共感する。
だが、だからこそ翻訳について疑問が残る。
「作者を変えてしまうほど強く作用する言語を、別の言語に交換して、本当に作品の大部分はそのまま残るのだろうか。」
原作者は、ある言語との葛藤の末に作品を成立させた。
それを別言語へ移した瞬間、その葛藤の構造は一度崩れる。
そして翻訳者は、その作品を別の言語の制約の中でもう一度成立させなければならない。
そう考えると、翻訳という仕事の見え方も変わってくる。
翻訳作品は「共著」ではないか
私は、翻訳作品を単なるコピーとは考えにくい。
原作者は、ある言語の制約の中で作品を書く。
翻訳者はその作品を受け取り、今度は別の言語の制約を引き受ける。
原文にある時制が、こちらにはない。
原文と同じ語順にすると、こちらの言語では必要以上に強調されてしまう。
同じ曖昧さを残せない。
同じ音も作れない。
何かを守れば、何かを捨てなければならない。
そのたびに翻訳者は選択する。
つまり翻訳者もまた、言語と格闘している。
ならば翻訳作品とは、
「原作者と翻訳者による一種の『共著』と考えることもできるのではないか。」
もちろん翻訳者は、何もないところから自由に作品を作っているわけではない。
原作品という巨大な制約がある。
しかし同時に、翻訳先の言語というもう一つの巨大な制約もある。
その二つの間に、新しい作品が成立する。
そう考えれば、翻訳とは「原作から何割失われたか」というだけの問題ではなくなる。
翻訳によって失われるものがあり、同時に、翻訳によって初めて生まれるものもある。
そもそも原文なら100を受け取れるのか
ここまで考えると、別の疑問も出てくる。
では、原文を読めば100を受け取れるのか。
もちろん、そんなことはない。
同じ日本語を話している人同士でも、一つの作品から受け取るものは違う。
年齢も違う。
経験も違う。
知識も違う。
時代も違う。
同じ言葉から思い浮かべるものさえ違う。
作者本人ですら、自分が書いた作品の可能性を100%把握しているとは限らないだろう。
むしろ、作者本人にも見えていなかったものを、後の読者が発見することだってある。
だから、ここでいう「100」は作者の頭の中に最初から存在した意味ではない。
今のところ私は、
「ある言語、ある形式、ある歴史的条件の中で成立した作品が持つ可能性の総体」
くらいに考えている。
読者はそこから、それぞれ違うものを受け取る。
翻訳者もそこから何かを受け取り、別言語の中でもう一度作品を成立させる。
そして、その翻訳作品を読んだ人が、さらに別のものを受け取る。
そう考えると、文学とは意味を完全な状態で輸送する箱ではないのだろう。
それでも、伝わる70には価値がある
ここまで書いてきたが、私は桑原の考えを全面的に否定したいわけではない。
むしろ考えていくうちに、彼が大切にしているものもよく分かってきた。
桑原が見ているのは、
「言語や時代を越えて、それでも人間から人間へ伝わってしまうもの」
なのだと思う。
孤独。
恋愛。
嫉妬。
死。
欲望。
罪。
他者を理解しようとする心。
そうしたものが、翻訳という大きな断絶を越えてなお人を動かす。
それは確かにすごい。
日本語訳の『異邦人』を読んで人生を揺さぶられたなら、その経験に価値がないなどとはまったく思わない。
70しか受け取れていなかったとしても、その70によって人生が変わることはある。
そこは桑原に譲ってよいと思う。
ただし、一つだけ譲れない。
「そこで伝わらなかったものもまた、その作品なのではないか。」
残った70だけを取り出して、
「ここに作品の本質がある」
と言い切ることには、どうしても抵抗がある。
文学とは、言葉でなければ生まれなかったもの
結局、私と桑原では、文学に期待しているものが少し違うのだと思う。
桑原は、文学を通して人間の核心へ近づこうとする。
私は、それに加えて、
「その核心が、なぜこの言葉でしかこの形を取れなかったのか」
を見たい。
人間について深いことを書いているだけでは足りない。
言葉遊びが巧妙なだけでも足りない。
人間に対する深い洞察と、ある言語で表現するという行為とが切り離せなくなったとき、私はそこに文学的な価値を感じる。
だから、翻訳できない作品ほど優れている、と言いたいわけではない。
翻訳によって世界中の人間を動かす作品は、当然すばらしい。
ただ、
「翻訳できたものだけが、その作品なのではない。」
翻訳の中でこぼれたもの。
別の言語では同じ形を取れなかったもの。
原作者が、自分の言語と格闘した痕跡。
そこまで含めて、一つの文学作品なのではないだろうか。
桑原が、翻訳されたあとにも残る70%に文学の力を見るのであれば、私はこう問い返したい。
「その70%は、本当に『文学』である必要があったのだろうか。」
そしてもう一つ。
「失われた30%があったからこそ、その70%も、その形で生まれたのではないだろうか。」
今のところ、私はそのように考えている。
参考文献・参照箇所
桑原武夫『文学入門』岩波新書(青版34)、岩波書店、1950年
(1963年改版。参照版:2013年2月25日 第85刷)。
本記事では主に以下の箇所を参照した。
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第一章「なぜ文学は人生に必要か」pp.17–18
――創作における言語の抵抗、作者と対象・言語との相互作用 -
第四章「文学は何を、どう読めばよいか」pp.114–115
――映画・ラジオの登場と小説の職能、小説に固有の享受のあり方 -
第五章「『アンナ・カレーニナ』読書会」pp.133–135
――翻訳による文学鑑賞、近代散文小説と言語・関係の問題