十年以上前、私は谷徹『これが現象学だ』を一度読んでいる。
当時も現象学には興味があった。しかし、正直なところ、何を言っているのかほとんど分からなかった。「事象そのものへ」「志向性」「超越論的還元」といった言葉だけが残り、結局、現象学がどういう立場なのかをつかめないまま本を閉じた。
今回、久しぶりに本書と向き合って驚いた。
フッサールが考えていたことは、私が別の場所から長年考えてきたことと、意外なほど近かったからである。
ただし、近かったからこそ、こちらの考えもかなり修正されることになった。
私は「未分化な世界」を雑に扱っていた
私はこれまで、人間が世界を認識することを大ざっぱに二段階で考えていた。
まず身体によって世界に触れる。そして、その世界に言語的な分節線を入れる。
重要なのは、「分節線を入れる」とは単に物に名前をつけることではないということだ。
連続していたものに差異を成立させる。「こちら」と「あちら」を分け、何かを対象として取り出せるようにする。その働きによって、人間は世界からある程度距離を取り、関係を考え、組み替えることができる。
私は芸術についても同じように考えてきた。
すでに出来上がった世界の分節をいったん壊し、未分化な状態へ戻り、そこへ新しい分節線を引き直す。絵画でも、彫刻でも、舞踏でも、文学でも、芸術の根底にはそのような運動があるのではないか。
だから私の中には、
「コスモス → カオス → 再分節 → 新しいコスモス」
という図式があった。
ところがフッサールを追っていくと、どうもこの「カオス」が怪しくなってくる。
言語以前の世界は、私が思っていたほどのっぺりしていない。
言葉になる前から、何かはすでに際立っている
谷が紹介する発生的現象学では、意味や対象は最初から完成しているものではない。
ある「場」のなかで、同質的なものがまとまり、異質なものが分かれ、何かが「図」として「地」から際立ってくる。その「何か」が、後に対象となる。フッサールはこの原初的なまとまりを「原連合」と呼ぶ。
ここではまだ、「これは木だ」「これは石だ」と言葉で判断しているわけではない。
それにもかかわらず、何かが何かとして浮かび上がっている。
しかも、際立ったものはこちらを「触発」し、注意を向けさせる。そこから、そのものが何であるのかという解明が進んでいく。
これは私にはかなり大きかった。
私はこれまで、言語による分節より前を、かなりひとまとめに「未分化な世界」として処理していた。
しかし、その内部でもすでに、
まとまりが生じる。
差異が生じる。
何かが際立つ。
こちらが触発される。
という出来事が起こっている。
言語が世界へ最初の切れ目を入れるのではない。
言語以前から、世界はすでに分化し始めている。
そして現在は「点」ではなかった
今回もっとも面白かったのが、フッサールの時間論だった。
音楽を聴く場面を考える。
ド、レ、ミ、と音が続く。
もしレが鳴った瞬間にドが完全に消滅してしまうなら、私たちは三つの孤立した音を聞くだけで、「ドレミ」という一つのメロディを聞くことはできない。
フッサールは、すでに過ぎたものが現在になお残っている働きを「把持」、いま与えられているものを「原印象」、まだ来ていないものへの先取りを「予持」と呼ぶ。
この三つによって、現在は数学的な一点ではなく、「幅」をもったものとして経験される。
ここには強い説得力を感じた。
そもそも差異を感じるためにも時間的なまとまりが必要なのである。
Aが完全に消滅してからBが出現するのなら、AとBが違うということさえ経験できない。Aが何らかの仕方で残っているからこそ、「違う」が成立する。
つまり、私が考えていた「分節」よりもさらに手前に、
「差異を差異として成立させる時間的な厚み」
がある。
未分化な世界は、何もない泥ではなかった。
そこにはすでに時間が流れている。
ただし「予持」には引っかかった
もっとも、ここですべて納得したわけではない。
本書では、ド、レのあとにミが予持され、それが実際のミによって「充実」されるという例が示される。またサイコロでは、裏面に五の目があると予持していたところ、実際にはそうでなかった場合に「期待外れ」が生じ、そこから「五ではない」という「否性」が成立すると説明される。
私はここで引っかかった。
「ミが来る」「五がある」という期待は、すでにかなりの経験を前提としているのではないか。
まったく何も形成されていない原初的な経験なら、未来はまだ限定されていないはずである。何が来てもよいなら、「裏切られた」という経験も成立しない。
期待が裏切られるためには、あらかじめ「こうなるだろう」という限定が必要になる。
そして本書自身、一度得られた意味は「類型」として残り、過去の経験が後続する経験に影響すると説明している。
ならば、少なくとも具体的な「期待外れ」は、本当に最初の最初にあるのではないだろう。
まず差異やまとまりが生じ、経験が堆積し、類型が形成される。その類型によって「こう続くだろう」という期待が生じ、それが破られたとき、初めて否性が生まれる。
そう考えたほうが私は納得できる。
「予持」という一語の中にも、単に未来へ開かれているという時間的構造と、すでに経験によって内容を与えられた期待とを区別する必要があるのではないか。
この点については、本書を読んだ範囲では疑問を残しておきたい。
フッサールは、ついに自我の手前まで潜ってしまう
そしてフッサールは、さらに潜る。
普通なら、「私」が世界を経験すると考える。
しかし、その「私」自身が時間的に一つの私として成立していることを、私自身によって説明してよいのだろうか。
そこで晩年のフッサールは、志向性そのものがまだ成立していない「原受動性」という次元へ遡る。
そこでは通常の意味での自我もまだ成立していない。それでも原初的な時間にはまとまりがあり、原ヒュレーが瞬間ごとに完全消滅することなく緩やかな統一を形成する。そのまとまりのなかから、自我そのものが成立してくると考える。
さらにフッサールは、志向性によって対象が構成されるより以前から、時間の原構造、空間の原形式、原ヒュレーが何らかの仕方で与えられていると考え、その原初世界のあり方を「先存在」と捉える。
ここまで来ると、私は少し疑いたくなる。
自我が成立する以前を、成立した自我が説明しているからである。
「それを誰が経験したのか」と聞きたくなる。
原受動性や先存在は、直接見たものなのか。それとも、現在の経験を成立させるためにはそのような層がなければ説明できない、と遡及的に再構成されたものなのか。
谷自身、この後期の分析を「遡及的」「考古学的」な発掘として説明している。
私は、後者の性格をかなり強く感じる。
だからといって、簡単に退ける気にもならない。
フッサールがなぜそこまで行かなければならなかったのか、その道筋は理解できるからである。
世界を対象と同じものとして扱うことはできない。対象が存在するためには、すでにそれが現れる世界地平がなければならない。そして自我自身も、時間的な統一なしには成立できない。
一段ずつ基礎を掘っていった結果、最後には自我の手の届かない場所へ到達してしまった。
なんとも哲学らしい。
芸術家は「カオス」へ戻るのではない
この現象学との対話によって、私の芸術についての考えも少し変わった。
芸術家は、既成の世界を壊してカオスへ潜る。
私は以前ならそう言った。
しかし今は、完全なカオスへ戻るのではないと思う。
「木」「石」「身体」「色」といった出来上がった分節を一枚ずつ剥がしていく。
その下には、何もないのではない。
まだ「木」と呼ばれていなくても、何かがまとまり、際立ち、身体を触発している。時間的な厚みがあり、空間が開かれ、こちらの運動とともに現れ方が変化している。
芸術家が近づこうとしているのは、完成した木以前の、「木が木として生成してくる途中の世界」なのかもしれない。
谷は芸術的な「創造」について、それを無からの創造ではなく、それまで主題化されていなかったものを主題化し、不可視だったものを可視的にしていく働きとして捉えている。
この説明には強く共感する。
芸術とは、世界へ好き勝手な線を引くことではない。
すでに出来上がった線をほどき、その下で起こっている生成に触れ、そこから別の線を引き直すことである。
そう考えると、
「コスモス → カオス → 新しいコスモス」
という私の古い図式は、少し雑だった。
むしろ、
「既成の分節 → 分節の解除 → 前言語的な生成への接近 → 再分節」
と考えたほうがよい。
現象学は、手前の世界を見えるようにした
私は本書を読んで、フッサールの現象学を全面的に受け入れたわけではない。
特に、原受動性や先存在まで到達すると、「経験に忠実な記述」と「経験の成立条件についての理論的再構成」との境目はかなり怪しくなる。
しかし、その怪しい最深部まで潜ったからこそ、逆に手前の世界がよく見えた。
言語以前の世界は、単なるカオスではない。
そこではすでに、
時間がまとまり、
身体が動き、
現れが変化し、
差異が生じ、
何かが際立ち、
こちらが触発されている。
言語は、その世界を無から作るのではない。
芸術もまた、無から世界を創造するのではない。
私たちは、すでに生成しつづけている世界の中に生まれ、その生成に参加しながら、分節を引き直している。
十年以上前には何を言っているのか分からなかった現象学が、今になって私自身が考えてきた問題のすぐそばに現れた。
ただし、フッサールが本当にどこまで言えるのかという問題は残る。
そこから先は、谷徹の入門書を足場に推測を重ねるより、いつかフッサール自身の言葉を読んだときに、改めて問い直すことにしたい。
参考文献・参照箇所
谷徹『これが現象学だ』講談社現代新書1635、講談社、2002年。
本記事では主に以下の箇所を参照した。
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第3章「直接経験とは何か」
――現出と現出者、志向性、直観経過、把持・原印象・予持 -
第4章「世界の発生と現象学」
――原連合、触発、意味の発生、類型、予持・期待外れ・否性、世界地平 -
第5章「時間と空間の原構造」
――原受動性、時間の原構造、空間の原形式、先存在、自我の成立
このほか、芸術的創造を、それまで主題化されていなかったものを主題化し、不可視だったものを可視的にする働きとして論じる箇所を参照した。