前回、ハイデガーの「世界内存在」と道具論について考えた。
そこで私がようやく理解し始めたのは、ハイデガーが、まず一人の人間が存在し、その人間が外部にある世界を認識する、というモデルそのものを疑っているということだった。
人間は、まず孤立した主体として存在しているのではない。
気づいたときには、すでに世界の中にいる。
そして今回読み進めていくと、その「世界」には、最初から他者もいた。
「私」がいて、それから他者と出会うのではない
私たちは普通、
「私がいる」
「あなたがいる」
「私とあなたが関係を結ぶ」
という順序で考えがちである。
しかしハイデガーは、そう考えない。
現存在は「世界内存在」であり、その世界は最初から他者と共有された「共同世界」である。
つまり、まず完成した「私」が存在し、そのあとで他者を発見するのではない。
むしろ、他者とともにある共同世界の中で存在すること自体が、現存在のあり方に含まれている。
ハイデガーはこれを「共同存在」と呼ぶ。
そして、その共同世界の中で、他の現存在も私と「共に現に存在している」。これが「共現存在」である。
ここでいう「共同」は、仲良く協力しているという意味ではない。
一人で部屋にいたとしても、私は日本語を使い、誰かが作った机に向かい、他者と共有された意味の世界の中で物事を考えている。
孤独であることさえ、他者との関係が完全に消滅したことを意味しない。
だから、
私 → 世界 → 他者
ではない。
私を分析していけば、すでに世界があり、その世界を分析していけば、すでに他者がいる。
ハイデガーが「主体」という言葉を避けたくなる理由も、少し分かってきた。
「主体」と言った瞬間に、世界や他者から独立した一人の人間をまず置きたくなってしまうからである。
「私は賢い」は、一人では成立しない
そう考えると、私が自分について考えていることも怪しくなってくる。
「私は賢い」
「私は変わっている」
「私は教師である」
「私は芸術が好きだ」。
こうした自己理解は、私一人だけでは成立しない。
「賢い」という言葉には、すでに他者との差異が含まれている。
「変わっている」も同じである。
「教師」であるためには、生徒や学校や教育制度といった関係が必要になる。
自分自身について考えるために使っている言葉そのものも、自分一人で作ったものではない。
もちろん、これは人間が世界と関係を結ぶ最も根源的な層の話ではない。
人間という動物の発生を考えれば、人間的な他者との関係より前に、身体を通じた外界との接触を考える必要があるだろう。
しかしハイデガーがここで問題にしているのは、そうした発生学的な順序ではない。
人間の存在を記述するときに、他者から切り離された主体を出発点にしてよいのか。
その問いである。
この意味では、ハイデガーが批判しようとしているものはかなり大きい。
デカルト以降の近代哲学では、まず認識する「私」を確保し、その主体が外部世界をどう認識するのか、という順序で問題を立てる傾向が強かった。
ハイデガーは、その出発点そのものを崩そうとしている。
では、「普通」はどこからやってくるのか
共同世界の中で他者とともに生きている。
そこまでは分かった。
しかし、ここからハイデガーは面白いものを取り出す。
「ひと」である。
私たちは日常的に、
「普通はそうする」
「みんなそう考えている」
「そんなことをする人はいない」
「こういう場合はこうするものだ」
と言う。
では、この「普通」や「みんな」は誰なのだろう。
Aさんではない。
Bさんでもない。
特定の権力者でもない。
かといって、共同体に属する全員の意見を集計して、その平均値を計算したわけでもない。
誰でもない。
しかし、確かに存在しているかのように私たちの判断を方向づけている。
ハイデガーは、この匿名的な「人はこうするものだ」を das Man――「ひと」と呼ぶ。
最初、私はこれを、共同体にいる人々の差異から生じる一種の「平均」のようなものかと考えた。
しかし、どうも少し違う。
「ひと」は統計的な平均的人間ではない。
むしろ、
「普通はこうする」という匿名的な規範
と考えたほうが近い。
そして面白いのは、その規範を誰か一人が作って押し付けているわけではないことである。
私自身も、
「普通そうするでしょ」
と言う。
その瞬間、私も「ひと」を再生産している。
つまり、
社会 → 個人
という一方向的な支配ではない。
共同存在として生きている私たち自身が「普通」を支え、その「普通」に私たち自身が方向づけられている。
「ひと」は文化そのものなのか
ここで私は、「それなら『ひと』とは文化そのものではないか」と考えた。
たしかに、
「何歳くらいで結婚するのが普通か」
「どういう服装が適切か」
「何を成功と考えるか」
「どんな振る舞いが礼儀正しいか」
といった具体的な内容は、文化や時代によって大きく異なる。
その意味で「ひと」の規範はかなり個別的で、特殊である。
しかしハイデガーが取り出そうとしているのは、その具体的な内容ではないようだ。
日本では何が普通なのか。
1920年代のドイツでは何が普通だったのか。
そうした個別の文化内容を分析しているのではない。
共同世界の中で生きていると、特定の誰かには帰属しない「普通」が成立し、その「普通」が私たちの判断や行動を方向づける。
その構造そのものを問題にしている。
そう考えるなら、「ひと」は文化そのものというより、文化や慣習が私たちに作用するときの、より基礎的な構造と考えたほうがよいのかもしれない。
誰が決めたのか分からないのに、決まっている
「ひと」の面白さは、誰かに命令されているわけではないのに、判断がすでに方向づけられているところにある。
「この年齢ならこうするものだ」
と思って何かを選ぶ。
選択したのは、形式上は私である。
しかし、
「なぜ、それを選んだのか」
と問われて、
「普通そうだから」
と答えたとする。
このとき、その判断を最終的に引き受けているのは誰なのだろう。
誰か特定の人ではない。
「みんな」である。
しかし、その「みんな」に名前はない。
だから「ひと」の支配は見えにくい。
しかもハイデガーは、これを単純に悪いことだとは言っていない。
私たちは日常生活のあらゆる場面で、共同世界にすでに用意されている了解を利用している。
毎朝、
「なぜ私は電車に乗るとき列に並ぶべきなのか」
というところから自分自身で決断し直していたら、生活にならない。
「ひと」は、私たちの日常世界を成立させるものでもある。
問題になるのは、その世界の中に完全に没入し、自分が何をどのように理解しているのかまで見えなくなっていくときである。
「みんながそう言っている」だけで、分かったことになる
そこで出てくるのが、「空談」である。
この言葉も、単なる無駄話という意味ではない。
共同世界では、私たちはほとんどのことを自分で直接確かめずに生きている。
「この本は難しいらしい」
「この方法が正しいらしい」
「この作家はいま評価されているらしい」。
誰かから聞く。
それをまた別の誰かに話す。
さらに別の人が話す。
そうして情報は流通していく。
その内容は正しいかもしれない。
問題は、真偽ではない。
語られていることと、その事柄そのものとの関係がどんどん薄くなっているにもかかわらず、
「みんながそう言っている」
ということ自体によって、すでに理解されたこととして扱われることである。
自分が何を直接理解したのか。
何を誰かから聞いただけなのか。
どこまで確かめたのか。
その区別が曖昧になっていく。
「ひと」が匿名化された判断主体だとすれば、「空談」は匿名化された理解とでも言えるかもしれない。
ここまでは、私はかなり納得できた。
人間が言語を共有し、共同世界を生きている以上、すべてのことを自分自身で根源から理解して生きることなどできない。
他者から受け取った理解に依存する。
そして、その理解が根拠から離れて流通することもある。
これはかなり広い社会で起こりうることのように思える。
「好奇心」で、少し怪しくなってきた
ところが、ここから私は少し引っかかり始めた。
ハイデガーは「空談」と結びついた日常的なあり方として、「好奇心」を挙げる。
ただし、ここでいう好奇心は、何かを深く知りたいという知的好奇心ではない。
一つの対象にとどまって理解するのではなく、
「次は何だ」
「新しいものは何だ」
と、次々に別の対象へ移っていく。
見ることそのものが目的になり、一つのものに深く関わらない。
空談によって、
「いま、これが話題だ」
「これを見ておくべきだ」
というものが現れ、好奇心がそこへ向かう。
そして、また次のものへ移る。
なるほど。
そういう人間のあり方があることは分かる。
しかし私は、ここで少し立ち止まった。
これは本当に、現存在一般の根源的な構造なのだろうか。
情報が大量に流通する社会なら、非常によく分かる。
新聞、雑誌、テレビ、そして現在ならSNS。
次々と新しい話題が現れ、「ひと」がそれを追いかける。
しかし、情報量の少ない社会や、小さく固定された共同体でも、同じように「新しいものから新しいものへ移動する好奇心」が日常的な存在構造として成立するのだろうか。
ここまで来ると、
近代的大衆社会に特有の現象を、人間一般の存在構造にまで広げてはいないか
という疑問が出てくる。
実際、ハイデガーの「ひと」や「公衆」をめぐる議論の背景には、キルケゴールによる「公衆」や「水平化」への批判があり、ハイデガー自身が生きていた時代には、マスメディアを伴う大衆社会が急速に成立していた。
「共同存在」から「ひと」へ。
「ひと」から「空談」へ。
ここまではかなり普遍的な構造として理解できた。
しかし、
「空談」から「好奇心」へ。
ここで突然、存在論と時代診断の境界が怪しくなったように感じた。
自分が本当に分かっているのかも分からない
そして「空談」と「好奇心」が組み合わさると、ハイデガーのいう「あいまいさ」が生じる。
これも、単に言葉の意味が曖昧だという話ではない。
あることについて話せる。
関連する言葉も知っている。
人とも議論できる。
だから、自分では分かっているような気がする。
しかし、
自分は本当にそのことを理解しているのか。
それとも、「ひと」が語っていることを自分も語れるようになっただけなのか。
その区別がつかない。
しかも、一つの対象についてそれを確かめる前に、好奇心は次の対象へ移ってしまう。
すると、何を本当に理解していて、何をただ知っているつもりなのかが、ますます分からなくなる。
この「あいまいさ」は、単なる知識の問題にとどまらない。
「私はこういう人間だ」
「私はこう生きたい」
という自己理解についても、
それが自分自身の存在可能性として引き受けたものなのか、「ひと」が用意した生き方を自分のものだと思っているだけなのか、その区別が曖昧になっていく。
ここでハイデガーは、いよいよ「実存」の問題へ近づいていく。
ここから、少し説教くさくなりそうである
ハイデガーにとって「実存」とは、単に人間が物理的に存在しているという意味ではない。
現存在が、自分自身の存在可能性に関わりながら生きている、そのあり方を指す。
人間は、
「自分はどういう人間なのか」
「どう生きるのか」
という、自分自身の存在を問題にすることができる。
すると当然、次の問いが出てくる。
その生き方は、本当に自分自身で引き受けたものなのか。
……このあたりから、私は少し嫌な予感がしてきた。
「それは本当に君自身が選び取った人生なのか!」
などと言われ始めると、急に自己啓発か説教くさいおやじの話のように聞こえてくる。
もちろん、ハイデガーは、
「社会の声を捨てて、心の奥底にある本当の自分に従え」
と言っているわけではない。
そもそも現存在は共同存在なのだから、社会や他者を全部剥ぎ取ったところに純粋な「真の私」が保存されている、という話にはならない。
それでも、この先に待っているのは、
「頽落」
「非本来性」
「本来性」
という、かなり危険な香りのする言葉たちである。
ハイデガー自身は、それらを単純な道徳的評価として使っているのではないという。
しかし、
「これは人間一般の存在構造です」
と言いながら、
「こういう生き方は非本来的で、こちらは本来的だ」
という区別を導入するのであれば、今度は、
価値判断を存在論の中へ紛れ込ませてはいないか
という疑問が出てくる。
今回読んだ範囲では、まだそこまで踏み込んでいない。
だから、この疑問についても今は保留しておきたい。
ここまでのハイデガーには、かなり納得できる部分があった。
孤立した主体を最初に置かないこと。
現存在が最初から共同世界を生きていること。
その共同世界から、特定の誰でもない「ひと」が成立すること。
そして「ひと」の世界では、誰かが直接確かめたわけでもない理解が「空談」として流通しうること。
このあたりまでは、私にもかなりよく分かる。
しかし「好奇心」に入ったところで、
近代的大衆社会の特徴を、人間一般の存在構造として扱ってはいないか
という最初の疑問が生じた。
そして、その先に「本来/非本来」という区別が待っていると知って、
今度は価値判断まで存在論化するのではないか
という第二の疑問が生じた。
ハイデガーが本当にそんな単純なことを言っているのか。
それとも、まだ私が「本来性」という言葉の日常的な響きに引っ張られているだけなのか。
そこは、実際に先へ進んでから判断したい。
少なくとも、「世間に流されるな。本当の自分を生きろ」というだけなら、わざわざハイデガーを読む必要はない。
この先、彼がそこからどこまで遠くへ行くのか。
もう少し付き合ってみようと思う。
参考文献・参照箇所
仲正昌樹『ハイデガー哲学入門――『存在と時間』を読む』講談社現代新書2341、講談社、2015年。
主として第2章「『ひと=世間』の何が問題なのか?」を参照。世界内存在、共同存在、共現存在、「ひと」das Man、公共性、空談、好奇心、あいまいさ、頽落/本来性への導入、キルケゴールの「公衆」「水平化」との関係を扱った箇所を参照した。