前回、ハイデガーの「共同存在」から「ひと」「空談」「好奇心」「あいまいさ」までを追った。
共同世界の中で生きている私たちは、特定の誰でもない「ひと」が作り出す「普通」の中で物事を理解している。
「普通はこうする」
「みんなそう言っている」。
そうした理解を利用せずに日常生活を送ることなど、おそらくできない。
ところが、ハイデガーはそこからさらに先へ進む。
出てくるのが、
「頽落」
「非本来性」
「本来性」
という言葉である。
……一気に説教くさくなった。
「世間に流されてはいけない」
「本当の自分を見つけなさい」
「自分の人生を生きなさい」。
そんな話をされるのではないか。
前回の私は、かなり警戒していた。
しかし、実際に言葉の意味を追ってみると、どうもそれほど単純な話ではなかった。
「頽落」は、堕落することではない
まず「頽落」という言葉がよくない。
文字だけを見れば、もともと高いところにいた人間が、悪い状態へ落ちていくように聞こえる。
しかしハイデガーが言う「頽落」は、道徳的な堕落を意味しているわけではない。
私たちは日常的に、世界の中の物事へ没頭している。
仕事をする。
食事をする。
人と話す。
ニュースを読む。
誰かの話を聞く。
そのたびに、
「自分とは何者なのか」
「私はどのように存在すべきなのか」
などと考えているわけではない。
むしろ、共同世界の中ですでに共有されている理解を利用しながら、目の前のことに関わっている。
前回までの言葉で言えば、
「ひと」の「普通」を利用し、
「空談」として流通している理解を利用し、
日常世界の中で生きている。
ハイデガーが「頽落」と呼ぶのは、このように現存在が日常世界の中へ没入しているあり方である。
だから、
本来的な状態から、非本来的な状態へ転落した
という時間的な出来事ではない。
現存在は、日常的にはそもそもこういう仕方で生きている。
ここまでは、私にもそれほど抵抗がない。
むしろ「頽落」という言葉が、必要以上に悪そうなのである。
そして「本来的/非本来的」が出てくる
問題は、その次だった。
ハイデガーは、こうした日常的な現存在のあり方を「非本来的」と呼ぶ。
また怪しい言葉が出てきた。
「非本来的」と言うからには、その反対に「本来的」なあり方がある。
するとどうしても、
非本来的=悪い生き方
本来的=正しい生き方
と読みたくなる。
そして、
「世間に流されて非本来的に生きるのをやめ、本来的な自分を取り戻せ」
などと言われ始めたら、いよいよ説教である。
しかし、ハイデガーが問題にしているのは、どうも「本当の自分を発見せよ」という話ではない。
非本来的に生きている私も、私である。
社会によって作られた偽物の人格が私を乗っ取っていて、その奥に純粋な「真の私」が眠っているわけではない。
そもそも現存在は共同存在だった。
最初から他者と共有された世界の中で生きている。
ならば、他者や社会をすべて剥ぎ取った先に、汚染されていない純粋な自己が出てくる、というモデルにはならない。
ここで私は、少し立ち止まった。
それなら、そもそも「本来的」という日本語に引っ張られているのではないか。
eigentlichを調べてみる
そこで原語を見てみた。
ハイデガーが「本来的/非本来的」として区別しているのは、
eigentlich / uneigentlich
である。
「本来的」という日本語だけを見ると、どうしても「本来あるべき正しい姿」という響きを感じてしまう。
しかし、eigentlich と近い語である eigen には、「自分自身の」「そのものに固有の」「その人自身に属する」といった意味がある。
実際、仲正も「本来的自己」を説明する際に、「固有に掴みとられた自己」という言い方をしている。
そう考えると、「本来的」という日本語から受ける印象とは少し違って見えてくる。
「本来あるべき正しい人間になる」
というより、
自分自身に固有のものとして、自分の存在可能性に関わる
という方向なのである。
そうであるなら、私自身が理解するための補助線としては、「本来的/非本来的」より、
固有的/非固有的
とでも考えたほうが分かりやすい。
もちろん、これは定訳を変更すべきだという主張ではない。
また、語源だけからハイデガーの哲学概念を決定できるという意味でもない。
あくまで、私自身がハイデガーの言いたいことを理解するための補助線である。
「本来的」という訳語を見て、
「正しい自分になれ!」
と読むより、
「自分自身の存在可能性を、自分自身に固有のものとして引き受けているか」
と考えたほうが、少なくとも説教臭さはかなり薄くなる。
何を選んだか、ではない
このことを理解するうえで重要なのは、ハイデガーが特定の生き方を「本来的」として推薦しているわけではない、という点である。
たとえば、
大学へ行く。
会社員になる。
結婚する。
こうした選択そのものが非本来的なのではない。
逆に、
大学へ行かない。
会社を辞める。
周囲と違う人生を選ぶ。
からといって、それだけで本来的になるわけでもない。
「会社を辞めて、自分らしく生きよう!」
という価値観が流行すれば、それもまた「ひと」の声になりうる。
つまり、
何を選んだかではなく、その可能性とどのように関わっているのか
が問題になる。
周囲と同じ選択をしていても、それを自分自身の存在可能性として引き受けることはできる。
反対に、周囲とまったく違う選択をしていても、
「人と違うことをするのが本当の自分らしさだ」
という別の「ひと」に従っているだけかもしれない。
ここまで来ると、「世間に流されるな」という単純な話ではないことは分かってくる。
「自分のものとして引き受ける」とは何なのか
しかし、ここで別の疑問が生まれた。
自分の存在可能性を「自分自身のものとして引き受ける」とは、具体的にどういうことなのだろう。
絶えず自分の行動について反省的であればよいのだろうか。
「私はなぜこれを選んだのか」
「これは本当に自分の意思なのか」
と何度も問い直せば、本来的になれるのか。
どうも、そんな単純な話でもなさそうである。
なぜなら、その反省の仕方そのものが「ひと」によって与えられている可能性があるからだ。
「常に自分自身を見つめ直す人間こそ立派である」
という価値観に従って、毎晩熱心に自己分析しているだけかもしれない。
そう考えると、
反省している/していない
だけでは、本来的/非本来的を区別する基準にはならない。
では、誰が「本来的だ」と判定するのか
さらに困る。
本人が、
「私はこの人生を自分自身で引き受けています」
と言えば、それで本来的なのだろうか。
それでは自己申告になってしまう。
人間は、自分が何に影響されているのかを完全に把握できるわけではない。
「これは自分自身で選んだ」
と思っていても、その選択を可能にしている価値観そのものが、「ひと」の世界から与えられているかもしれない。
かといって、第三者が、
「あなたの生き方は本来的です」
「あなたは非本来的です」
と判定できるとも思えない。
そんな資格を持った人間がどこにいるのだろう。
すると、
自分の存在可能性を自分自身のものとして引き受けているかどうかを、何によって判定するのか
という問題が残る。
ここは、今の私にはまだよく分からない。
説教おやじ疑惑は、いったん保留する
前回の私は、「本来性」という言葉を見てかなり身構えていた。
「世間に流されるな」
「本当の自分を生きろ」。
そんな話になるなら、ハイデガーを読む必要はないと思った。
しかし、ここまで読んでみると、少なくともそれほど単純ではない。
「本来的/非本来的」を、
「正しい/間違っている」
ではなく、
「固有的/非固有的」
という方向から理解すると、かなり違って見える。
ハイデガーが問題にしているのは、社会から自由になって「真の自己」を発見することではない。
共同世界の中でしか存在できない現存在が、それでも自分自身の存在可能性にどのように関わるのか。
その問題らしい。
したがって、現時点では、
「ハイデガー、説教おやじじゃないか」
という疑いはいったん弱まった。
ただし、完全に消えたわけではない。
もしこの先、
非固有的なあり方から、固有的なあり方へ移るべきだ
と積極的に言い始めるのなら、やはり価値判断の問題は戻ってくる。
そして、それ以前に、
そもそも「自分自身のものとして引き受ける」とは何なのか。
その判定基準がまだ分からない。
おそらく、この問題に答えるために、この先のハイデガーは「被投性」「不安」「死」「良心」「決意」といった概念へ進んでいくのだろう。
今の段階で結論を急ぐ必要はない。
「本来的」という日本語から受けた第一印象は、少し修正することになった。
しかし、新しい疑問も生まれた。
自分の人生を「自分のものとして生きている」と、いったい誰が、どうやって確かめるのか。
次は、そこから続きを読んでみたい。
参考文献・参照箇所
仲正昌樹『ハイデガー哲学入門――『存在と時間』を読む』講談社現代新書2341、講談社、2015年。
主として第2章「『ひと=世間』の何が問題なのか?」を参照。「ひと」の日常性、頽落、非本来性、本来性、本来的自己、決断と責任、本来/非本来をめぐる留保・批判を扱った箇所を参照した。
語義確認:Dudenオンライン辞典「eigen」「eigentlich」。一般的なドイツ語の語感を確認するために参照した。