塾長ノート

あれだけ壮大に語って、結局「自分で決めろ」なのか――ハイデガーの不安と投企

被投性・投企から、「自分の可能性」は本当に自分のものなのかを考える

前回、ハイデガーの「本来性/非本来性」について考えた。

最初は、「本来的に生きる」という言葉から、

「世間に流されるな」
「本当の自分を生きろ」

という、かなり説教くさい話を想像していた。

しかし、eigentlich / uneigentlich という原語を見ていくと、「正しい/間違っている」というより、「固有的/非固有的」と考えたほうが理解しやすいことが分かってきた。

そこで問題は少し変わった。

自分自身の存在可能性を、自分自身のものとして引き受ける。

ハイデガーが言いたいことは、どうもそのあたりにあるらしい。

しかし私はそこで、

では、「自分のものとして引き受けている」と、何をもって判断するのか。

という疑問を残した。

今回は、その続きを読んだ。

出てきたのは、「被投性」「投企」「不安」である。

そして途中までは、かなり分かりやすかった。

ところが「不安」から本来性へ近づいていくにつれて、私はまた分からなくなった。

というより、

あれだけ壮大な存在論を展開してきた結末が、まさか「最後は自分で決めなさい」ではないだろうな。

という、別の不安が出てきた。

気づいたときには、もうここにいる

まず「被投性」は分かりやすい。

私たちは、自分で条件を選んでから世界に生まれてきたわけではない。

どの時代に生まれるか。

どの国に生まれるか。

どんな身体を持つか。

どのような家庭や文化の中で育つか。

どのような過去をすでに背負っているか。

気がついたときには、それらはすでにある。

仲正昌樹も、現存在は身体性、年齢、経歴、文化的所属などを自由意志によって自由自在に変更できるわけではなく、「気が付いた時には、『世界』の内に存在している自己を発見する」と説明している。

これが「被投性」である。

つまり、

人間は、自分で選んでいない条件の中へ、すでに投げ込まれている。

ここには特に違和感はない。

これまで見てきた「世界内存在」とも矛盾しない。

むしろ、世界から独立した主体がまず存在して、その主体が自由に人生を設計するという考えを否定するなら、かなり自然な話である。

しかし、すべてが決まっているわけでもない

ただし、投げ込まれているからといって、人生が完全に決定されているわけでもない。

私はすでに一定の条件の中にいる。

しかし、その条件の中には複数の可能性がある。

今の仕事を続けるかもしれない。

別の仕事を始めるかもしれない。

大学へ行くかもしれない。

行かないかもしれない。

結婚するかもしれない。

しないかもしれない。

現在の自分だけが私なのではなく、

私は「これからこうなりうる」という可能性との関係の中でも生きている。

この、未来の可能性へ向かって自己を理解するあり方が「投企」である。

仲正も、現存在は一方的に投げ込まれているだけではなく、一定の範囲の存在可能性をもち、その中から自己の実存を選び取って未来へ向かう、と説明している。

だからハイデガーの人間像は、

何でも自由に選べる人間

でも、

すべてを環境によって決定されている人間

でもない。

選んでいない条件の中に投げ込まれながら、それでもまだ実現していない可能性へ向かっている。

被投性と投企。

ここまでは、かなり筋が通っていると思った。

「自分の可能性」と言われると、少し怪しくなる

ただし、ここで一つ気になる。

その「可能性」は、どこから出てきたのだろう。

大学へ行く。

会社員になる。

研究者になる。

結婚する。

起業する。

こうした可能性を、私は一人で発明したわけではない。

すでに世界の中に存在している。

しかも、自分に何が可能なのかも、時代、身体、経済状況、教育、家庭、文化などによって大きく左右される。

つまり、

可能性のメニューそのものが、すでに共同世界の中で作られている。

もちろん、「共同世界から与えられていること」と「ひと」は完全に同じではない。

「大学へ行く」という制度や、「能力を伸ばすことには価値がある」という考えが文化的・歴史的に共有されていることと、

「普通は大学へ行くものだ」
「能力は伸ばすのが当然だ」

と、それを匿名的な自明性として受け取る「ひと」的なあり方は、一応区別したほうがよい。

しかし、どちらにせよ重要なのは、

私は、自分の価値基準を無から作り出したわけではない

ということである。

ここで、前回の「自分のものとして引き受ける」という言葉が、また怪しくなってくる。

そこへ「不安」が出てくる

そしてハイデガーは「不安」を重要な契機として扱う。

ここでいう不安は、

「試験に落ちるのが不安だ」
「病気になるのが不安だ」

というような、特定の対象に対するものではない。

そうした対象がはっきりしているものを、ハイデガーは「恐れ」と区別する。

不安では、「何が不安なのか」を世界の中の特定の存在者として指し示すことができない。

では、何が不安なのか。

ハイデガーは、そこで「世界そのもの」を問題にする。

もちろん、地球そのものが怖いという意味ではない。

これまで見てきたような、

「これは何のためにある」
「これはこういう意味を持っている」

という関係の網としての世界である。

普段なら、

仕事をする。
生活する。
勉強する。
結婚する。
誰かと付き合う。

そうした一つ一つの行為は、当然のように何らかの意味を持っている。

しかし不安の中では、その意味の連鎖そのものが急に頼りなくなる。

「なぜ仕事をするのか」

生活するため。

「では、なぜ生活するのか」

……。

普段は問わずに済ませている連鎖の底が抜ける。

仲正はこの箇所を、それまで慣れ親しんできた「世界」の無意味性への予感として説明している。普段私たちが生きている指示連関には、本当に最終的な意味の根拠があるのか。それが保証されていないことが露出する。

ここまでは分かる。

そういう経験があることも理解できる。

問題は、その先である。

意味が崩れたあと、何を基準に選ぶのか

「普通は大学へ行くものだ」。

不安によって、その「普通」がもはや絶対的な根拠ではなくなったとする。

大学へ行ってもいい。

行かなくてもいい。

どちらが正しいかは、最初から保証されていない。

そこで、

「では、自分自身の可能性を自分で引き受けよう」

となる。

ここで私は、急に煙に巻かれているような感じがした。

具体的に考えてみる。

私は数学が得意だとする。

そこで、

「自分には数学の能力がある。大学で数学を学び、この能力をもっと伸ばそう」

と決断した。

一見、自分自身の可能性を引き受けているように見える。

しかし、この推論には隠れた前提がある。

「高い能力は、さらに伸ばすことが望ましい」

という価値判断である。

ところが、

「人間は苦手なところを克服することで成長する」

という価値判断を採用すれば、まったく別の選択が出てくる。

数学はすでに得意なのだから、あえて苦手な分野を学んだほうがよい。

そうなるかもしれない。

つまり、

「私は数学が得意だ」という事実だけから、「大学で数学を学ぶべきだ」という選択は出てこない。

可能性を比較し、どれを選ぶか決めるためには、必ず何らかの価値判断が必要になる。

その物差しは、どこから持ってきたのか

では、

「能力を伸ばすほうがよい」

という物差しはどこから来たのだろう。

少なくとも、私一人が世界の外部で作ったものではない。

教育、家庭、文化、時代、他者との関係。

そうした共同世界の中で形成されたものだろう。

そこで、

「いや、その価値観をそのまま受け取るのではなく、自分自身で吟味して引き受ければいい」

と言われるかもしれない。

しかし、それでも問題は終わらない。

では、吟味するための基準はどこから来るのか。

「自分が納得できるかどうか」

を基準にするなら、

なぜ自分が納得することを重視すべきなのか。

「自分の能力を最大限発揮できるか」

を基準にするなら、

なぜ能力を最大限発揮する人生がよいのか。

どこまで行っても、別の価値前提が必要になる。

そして、その価値前提もまた共同世界の中で形成されているのだとしたら、

「固有な可能性を選ぶ」とは、いったい何を意味するのだろう。

「選ぶこと」と「固有に選ぶこと」は同じではない

ここで一つ、かなり重要な区別が見えてきた。

自分で選択することと、

自分固有の可能性を選択すること

は、同じではない。

「正解は誰にも保証されていない。最後は自分で決めるしかない」

というところまでは分かる。

しかし、それは単に、

最終的な決定者が私である

というだけである。

そのときに使っている価値基準まで「私固有のもの」になったことにはならない。

大学へ行くか行かないかを私が決めた。

それは事実である。

しかし、その決定に使った価値体系が、すべて共同世界から与えられている可能性は残っている。

ならば、

「決めたのは私だ」

というだけで、本来性や固有性へ移行したことになるのだろうか。

私は、まだそこが分からない。

あれだけ壮大に語って、結局「自分で決めろ」なのか

ここまで読んできて、少し拍子抜けした部分もある。

ハイデガーは、デカルト以来の主体と客体の図式を問い直した。

人間は孤立した主体ではなく、最初から世界内存在であると言った。

世界は物の集合ではなく、意味と関係の網として現れると言った。

さらに現存在は共同存在であり、「ひと」の世界の中で自己理解していると論じた。

ここまでは、ものの見方そのものを組み替えるような切れ味があった。

ところが、

「ひと」
「非本来性」
「不安」

と進んできたところで、

「世間の価値観をそのまま受け取らず、最後は自分自身で決断しなさい」

という話になってしまうのなら、急にスケールが小さく見える。

居酒屋で、おじさんが若者に、

「まあ最終的には、お前がどうしたいかだよ」

と言っているのと、どこが違うのだろう。

もちろん、ハイデガーはそんな単純なことを言いたいわけではないのだろう。

仲正自身も、「本来/非本来」を導入したところで、ハイデガーの実存分析には、単なる現象の記述を超えて、生き方の変更や実存的な決意を促すような価値判断が入り込んでいるように見える、と指摘している。

さらに仲正は、

何を基準に「本来的」と呼ぶのか。

本来的/非本来的の境界は本当に明確なのか。

自分が本来的な状態にあると、どう確信できるのか。

といった疑問も挙げている。

どうやら、私が引っかかっている場所は、それほど的外れではないようだ。

不安は、答えを与えてくれない

ただし、不安について一つだけ整理しておきたい。

不安は、

「本当に価値のある人生はこちらです」

と教えてくれるものではない。

むしろ逆なのだろう。

これまで当然だと思っていた価値の自明性を崩す。

「普通だから」

「みんなそうしているから」

という理由が、最終的な根拠にはならないことを露出させる。

その意味では、不安は答えではない。

答えが保証されていないことを明らかにする。

ここまでなら、まだ分かる。

しかし、そのあとに残された現存在が、何を根拠に「自分自身の可能性」を選ぶのか。

そこがまだ見えない。

そして、何らかの価値基準を使わなければ具体的な選択はできない以上、その価値基準が共同世界から来ているという問題からも逃げられない。

だから現時点では、

不安によって「ひと」の自明性が崩れること

と、

自分固有の可能性を引き受けること

のあいだに、まだ大きな隙間があるように感じる。

ハイデガーは、この隙間を本当に埋められるのだろうか。

次に待っているのは、「死」である。

人間にとって、誰にも代わってもらえない可能性。

ハイデガーはそこから、「固有」という言葉にさらに強い意味を与えようとするらしい。

それでこの問題が解決するのか。

それとも、壮大な存在論の末に、やはり「自分の人生は自分で決めろ」という説教が残るだけなのか。

もう少し読んでから判断したい。

参考文献・参照箇所

仲正昌樹『ハイデガー哲学入門――『存在と時間』を読む』講談社現代新書2341、講談社、2015年。
第2章「『ひと=世間』の何が問題なのか?」を参照。主要参照箇所はpp.108–112(本来/非本来の区別と、その基準・境界をめぐる問題)、pp.114–115(被投性・投企・与えられた条件と存在可能性)、pp.119–124(不安と恐れの区別、世界の無意味性、指示連関の自明性が崩れること)。

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