前回、ハイデガーの「死への先駆」について考えた。
そこで初めて、私がこれまで引っかかっていた「固有」という言葉に、かなり明確な意味が見えてきた。
死は、誰にも代わってもらえない。
他人の死を見ても、私自身の死を経験したことにはならない。
私が死ぬという可能性だけは、文字どおり私にしか属さない。
この意味でなら、死はたしかに「最も固有な存在可能性」である。
ここまでは、かなり納得した。
しかし問題は残った。
死が私固有であることと、
大学へ行くか。
何を学ぶか。
どの仕事をするか。
結婚するか。
何を大切にして生きるか。
といった具体的な選択まで「私固有」になることは、同じではない。
死の代理不可能性が、そのまま他の選択へ感染するわけではない。
しかも、何かを選択するためには必ず価値判断が必要になる。
「得意な能力を伸ばすのがよい」
という価値観を取るのか。
「苦手なところを克服することこそ成長だ」
という価値観を取るのか。
その物差し自体が共同世界の中で形成されているのだとすれば、
「自分自身の可能性を選ぶ」とはいったい何なのか。
私は、その問いをハイデガーに投げたまま読み進めた。
次に出てきたのが、「良心」「負い目」「決意性」である。
ハイデガーの「良心」は、善悪を教えてくれない
まず「良心」という言葉からして、少し身構える。
普通、良心と言えば、
「悪いことをしてはいけない」
とか、
「本当は何が正しいか、心の奥では分かっている」
といった道徳的な判断を思い浮かべる。
しかしハイデガーの「良心」は、そういうものではない。
むしろ、社会で共有されている、
「普通はこうするべきだ」
という公共的な良心は、「ひと」の声に近いものとして扱われる。
ハイデガーが問題にする「呼び声」は、具体的なメッセージを伝えるわけではない。
「大学へ行け」
とも、
「会社を辞めろ」
とも、
「数学を勉強しろ」
とも言わない。
そもそも言葉として聞こえる声ですらない。
仲正昌樹の説明では、ハイデガーの「呼び声」は自己内対話やカント的な「内的法廷」とも異なり、何かの命令内容を伝えるものではない。
では、何をするのか。
どうも、
「お前、自分自身の存在の問題から逃げているぞ」
とでもいうように、「ひと」の中に埋没している現存在を、自分自身へ振り向かせる作用らしい。
しかもこの声は、自分が計画して出すものでもない。
他人から聞こえてくるものでもない。
ハイデガーは、
「私のうちから到来し、しかも私を超えて到来する」
という、かなり詩的な言い方をする。
……こういうところは、哲学者が説明しているのか、詩を書いているのか、若干怪しくなる。
ただ、言いたいこと自体は分からなくもない。
被投性。
不安。
死。
自分がなぜここに存在しているのかも分からない。
世界の意味が最初から保証されているわけでもない。
死は必ず来る。
そうした、普段は「ひと」の日常性の中で見ないようにしているものが、完全には消えず、こちらを自分自身へ振り向かせる。
仲正は、この「良心の呼び声」を、抑え込もうとしても消えない被投性や不安の「不気味さ」が、現存在を自分自身の存在へ向け直す作用として説明している。
この意味なら、良心については理解できる。
ただし、やはり良心も、
「何を選べばよいか」
は教えてくれない。
人間は、何かを選べば必ず何かを捨てる
次に出てくるのが「負い目」である。
これも普通の意味の罪悪感とは違う。
誰かを傷つけた。
約束を破った。
借金を返していない。
そういう具体的な罪や負債ではない。
ハイデガーが問題にするのは、もっと根源的な「負い目」である。
人間は、有限な存在である。
すべての可能性を同時に実現することはできない。
大学でフランス語を専攻すれば、同じ瞬間に工学を専攻することはできない。
会社員として働けば、同じ時間をまったく別の人生に使うことはできない。
誰かと結婚すれば、別の誰かと結婚する可能性は捨てることになる。
一つを選ぶということは、
同時に、他の可能性を選ばないということである。
仲正の説明でも、現存在の投企は、一つの可能性を選ぶことで他の可能性を放棄せざるを得ず、その意味で「無的」であるとされている。
だから、ここでいう「負い目」は、
「悪いことをしたから罪がある」
というより、
有限な存在である以上、何かを選び、他を捨て、その選択の帰結を担わざるを得ない
という構造に近い。
これもかなり人生訓っぽくなってきた。
しかし、言っていること自体は分かる。
何を選ぶかではなく、選んだことをどう生きるか
そして最後に「決意性」が出てくる。
良心の呼び声によって、
「ひと」の中に何となく埋没している自分から引き戻される。
自分が、理由も分からないままこの世界に投げ込まれていることを知る。
自分には無限の可能性があるわけではなく、何かを選べば他の可能性を捨てるしかないことを知る。
それでも、選ばずには生きられない。
そのうえで、
それでも自分自身の存在可能性として投企する。
これが決意性である。
仲正は、良心の呼び声を聞いた現存在が、「沈黙したままで、不安に耐えつつ自己投企する」よう促される状態を「決意性」として説明している。
ここで重要なのは、決意したからといって、世界の中身が全部変わるわけではないことだ。
大学は大学のまま。
仕事は仕事のまま。
家族も他人も道具も、そのまま存在している。
変わるのは、それらとの関わり方である。
「みんなそうしているから」
「普通はそうだから」
ではなく、
自分自身が選んだ可能性として、その関係を引き受ける。
仲正も、決意性によって目の前の世界そのものが内容的に別物へ取り替えられるわけではなく、事物や他者との関わり方が変様すると説明している。
しかも、選択の内容自体は変わらなくてもよい。
それまで会社員として働いてきた人が、決意性に目覚めたからといって、会社を辞めなければならないわけではない。
それまでの生き方を改めて自分のものとして選び直し、
「私はこの生き方を続ける」
と引き受けるなら、それも一つの決意になる。
仲正も、それまでの基本的態度を変えなくても、それを自覚したうえで変えないのであれば、その意味で選び直していることになると説明している。
ここまで読んで、私はようやく、
自分がハイデガーに聞いていた問いと、ハイデガーが答えようとしていた問いが違っていた
ことに気づいた。
私はずっと、「どちらを選ぶのが正しいのか」と聞いていた
私はこれまで、
「数学を伸ばすべきか」
「苦手な能力を克服するべきか」
という例を使ってきた。
そして、
「そのどちらを選ぶかには価値判断が必要だ」
「その価値判断は共同世界から来るのではないか」
と問い続けていた。
この問い自体は、今でも正しいと思っている。
しかし、どうやらハイデガーはそこに答えようとしていない。
私は、
AとBのどちらを選ぶのが正しいのか。
と聞いていた。
ハイデガーは、
正解が保証されていないのに、それでもAかBを選ばざるを得ない存在とは、どのような存在なのか。
と問うていた。
なるほど。
問題にしている場所が違ったのである。
これは私の読み方を少し修正しなければならない。
ハイデガーは、
「数学をやれ」
とも、
「苦手を克服しろ」
とも言わない。
どちらを選んでもよい。
問題なのは、
その選択を「普通だから」と誰かに預けたまま生きるのか、それとも、他の可能性を捨てたことも含めて自分自身の生として担うのか。
そこだった。
そう考えると、ここまで散々、
「で、何を選ぶのが正しいんだよ」
と聞いていた私は、少し違う裁判をハイデガーに仕掛けていたことになる。
それでも、価値判断の問題が消えたわけではない
ただし。
だからといって、こちらが問い続けていた問題そのものが消えたわけではない。
実際に何かを選択するとき、人間は何らかの価値判断を使う。
「能力を伸ばすほうがよい」
「苦手を克服するほうがよい」
「安定した生活がよい」
「自己表現のほうが大事だ」
こうした価値基準がどこから来るのか。
それが文化や教育や他者との共同世界の中で形成されているのであれば、
価値判断はどこまで「私自身のもの」になりうるのか。
この問いについて、少なくとも今回読んだ範囲でハイデガーが十分に答えたとは思わない。
ただ、これはもう、
ハイデガーの本来性論が失敗した
というより、
ハイデガーがそもそも主題にしていない別の問いが残った
と考えたほうが公平だろう。
ここは、私の評価を少し修正することになった。
公園のおじいさんでも言えそうである
しかし。
ここまで理解したうえで、私は別の意味で拍子抜けした。
ものすごく平たく言えば、ハイデガーの言っていることは、
「自分で選んだことに責任を持って生きろ」
ということではないか。
たとえば、公園のベンチに座っているおじいさんが、若い大人を捕まえて、こんな話をしたとする。
「俺は若いころ、大学でフランス語を専攻した。
今思えば、工学もやってみたかったと思っている。
でもな、あのとき何となくフランス語を選んだわけじゃない。
他の可能性も考えた。
そのうえで、俺はフランス語を選んだ。
だから、その後の人生も、その選択が生きるように生きてきた。
もちろん、工学を選んでいたら、今とは全然違う人生になっただろうよ。
でも、それならそれで、俺は工学を選んだことを自分の人生として引き受けて、そのスキルを生かす道を考えていただろう。
大事なのは、どっちを選んだかじゃない。
自分が選んだことから逃げずに生きることだ。
そういうことだぞ、若造」
……普通にありそうである。
しかも、なんとなく良い話である。
同時に、
ハイデガーを何十ページも読まなくても聞けそうな話でもある。
あれだけ壮大にやって、結論これなのか
ここまでのハイデガーは、とにかく壮大だった。
デカルト以来の主体と客体の図式を疑う。
人間を孤立した主体として考えず、世界内存在として捉える。
道具の存在を関係の網から考える。
現存在は共同存在であり、最初から他者とともに世界を生きている。
「ひと」が日常的な自己理解を支配する。
不安によって世界の意味連関が揺らぐ。
死は、他人には絶対に代理できない最も固有な可能性である。
良心が現存在を自分自身へ呼び戻す。
選択によって他の可能性を捨てる「負い目」を引き受ける。
そして決意性へ。
ここまで積み上げた。
その結末を、ものすごく乱暴に日常語へ戻すと、
「人生に絶対的な正解はない。人のせいにせず、自分で選んだことに責任を持て」
である。
……公園のおじいさんである。
これには、正直ちょっと笑ってしまった。
でも、公園のおじいさんとは決定的に違う
ただし、ここで終わらせるとハイデガーにかなり失礼でもある。
公園のおじいさんが、
「自分の選択に責任を持て」
と言うとき、それは多くの場合、人生経験から出てきた教訓である。
「俺はこう生きてきた。その経験から言うと、こうしたほうがいいぞ」
という話である。
ハイデガーがやったことは違う。
彼は、
なぜ人間がそもそも「自分で選び、その選択を引き受けざるを得ない存在」なのか
を説明しようとした。
人間は、自分で選ばなかった世界へ投げ込まれている。
しかし、可能性へ向かって生きている。
すべての可能性を実現することはできない。
一つを選べば、他を捨てる。
しかも、死だけは誰にも代わってもらえない。
「ひと」の中へ逃げ込むことはできても、その条件自体から完全に逃げることはできない。
最終的な価値の根拠が保証されていなくても、なお選択しながら生きるしかない。
そして、その選択の帰結を誰かに完全に代わってもらうこともできない。
だから、
自分自身の選択として引き受けながら生きるというあり方が、現存在の一つの本来的な可能性として現れる。
公園のおじいさんは、
「俺の経験からそう思う」
と言う。
ハイデガーは、
「人間という存在者の構造を分析すると、そもそもそうならざるを得ない」
と言おうとした。
ここは、かなり違う。
おじいさんの人生訓を、哲学にしてしまった
そう考えると、今回の読書への評価が少し変わった。
結論だけを取り出せば、驚くほど人生訓的である。
「自分で選べ」
「選んだことに責任を持て」
「他人や世間のせいにするな」
こういう言葉は、哲学書を開かなくても聞くことができる。
しかしハイデガーは、それを単なる経験談や道徳的な命令として置かなかった。
なぜそう言えるのかを、人間の存在構造から導こうとした。
だから、
「その辺のおじいさんでも言えることじゃないか」
という私の違和感は半分正しかった。
結論は、たしかにおじいさんでも言える。
しかし、
おじいさんの人生訓を、人間一般についての命題へ変えるために、世界内存在から死への先駆まで積み上げた。
そこが哲学だった。
そう考えると、かなり納得できる。
ものすごく遠回りをした。
そして到着した場所は、意外なほど日常的だった。
でも、その日常的な言葉に、
「なぜそれが人間一般について言えるのか」
という基礎を与えることこそ、哲学の仕事の一つなのかもしれない。
壮大な哲学的問いの結末は、人生訓だった
とはいえ、世界内存在や共同存在を読んだときのような、
「なるほど、世界の見え方そのものが変わる」
という感覚が、今回の本来性論にあったかと言われると、私はそこまでではない。
筋道は理解した。
こちらが投げていた問いの一部がずれていたことも分かった。
単なる説教ではなく、それなりに哲学的な基礎づけがなされていることも分かった。
しかし、最後に残った実存的なメッセージは、
「正解がないとしても、自分で選び、その選択を引き受けて生きるしかない」
という、かなり人生訓的なものだった。
これは批判というより、少し面白い読後感である。
あれだけ難しい言葉を使い、
あれだけ壮大な存在論を展開し、
あれだけ遠くまで歩いてきた。
そして山頂に着いたら、公園のおじいさんが先に座っていた。
「遅かったな」
と言われたような気がする。
ただし、そのおじいさんがなぜそこに座っていられるのか。
その地面を、ハイデガーは延々と掘っていた。
そう考えると、それはそれで哲学らしい。
そして、もう一つの問いは残った。
私たちが実際に選択するときに使っている価値基準は、どこから来るのか。
共同世界の中で形成された価値を、どこまで「自分自身のもの」と呼べるのか。
それは今回のハイデガーが真正面から答えた問いではなかった。
だから、その問題については、別の哲学者とも議論してみたい。
少なくとも今回、
ハイデガーが何を答えようとしていたのか
については、ようやくかなり見えてきた気がする。
参考文献・参照箇所
仲正昌樹『ハイデガー哲学入門――『存在と時間』を読む』講談社現代新書2341、講談社、2015年。
第3章「『死に向かう存在』にとっての『良心』とは?――『覚悟』するのは誰か?」を参照。主要参照箇所はpp.153–160(良心、良心の呼び声、「ひと」と公共的良心、被投性・不安・不気味さとの関係)、pp.161–171(根源的な負い目、道徳的罪悪感との区別、選択に伴う無性と責任)、pp.172–179(先駆的決意性、開示性、世界内の事物・他者との関係の意味転換、同じ生き方を自覚的に選び直す可能性)。